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臨済宗東福寺塔頭 正覚庵 勅謚佛智禅師七百年遠諱記念

重文 絹本着色佛智禅師像 正覚庵蔵

東福寺派管長 福島慶道老大師 直筆

東福寺派管長 福島慶道老大師 直筆

「佛智」は、正覚庵ご開山山叟慧雲大和尚が、朝廷より賜った禅師号です。

「佛智」とは、「佛の智慧」、「悟りの智慧」ということです。

それは、すべてのものを明らかに観る智慧であり、やがては、大いなる慈悲の心を生む智慧でもあります。













開山勅謚佛智禅師

重文 絹本着色佛智禅師像写 部分 正覚庵蔵

※右、重文 絹本着色佛智禅師像写 部分 正覚庵蔵

諱は慧雲、号は山叟、道空房と称し、寛喜三年(1231)武蔵の国飯沢に生まれ、姓は丹治氏。

 師は、十九歳で東福寺開山一國師の林下に入り、正嘉二年(1258)宋(中国)に渡り、倫断橋等に参じられ、宋に在る事十一年壁間の墨梅を見て見性せられ、その墨梅の図を将来されました。

 文永五年(1268)帰朝して博多の承天寺に住し、翌六年には大宰府の崇福寺に住された。

東福寺開山国師号宣下奏状 部分 正覚庵蔵 佛智禅師稿 伝佛智禅師筆

※左、東福寺開山国師号宣下奏状 部分 正覚庵蔵 
佛智禅師稿 伝佛智禅師筆

次いで弘安六年(1283)伊達家四代政依公に請われ、奥州伊達群の東昌、光明、満勝、観音、興福の五ヶ寺の開山となり、ついに正應三年(1290)、同じく政依公により東福寺南谷に建立された当庵の開山となられたのです。

永仁三年(1295)六十九歳の時、九條教藤殿の招聘で東福寺第五世となられました。

道貌朴古と称され多いにその禅風を高揚されましたが、正安三年(1301)七月九日薄暮、法堂寳華座に於いて示滅せんと侍僧に告げられたが、議する者あってやむを得ず妾(忘)去来機 無依獨帰 照天夜月 満地光輝と遺偈し、筆を抛って遷化されました。

齢七十五歳、全身を当庵に奉安し、正和三年(1314)勅謚佛智禅師、塔に眞如の号を賜る。

正覚庵 山号 碧玉山


■正應三年(1290)

伊達政依公 東福寺南谷に正覚庵を創建

■正安三年

佛智禅師寂 七月九日 同日、政依公(号 東昌寺殿朝散大夫覺印願西大居士)寂 黄金四枚を施入

■慶長六年(1601)

前田玄以公卒す(徳善院天凉玄以居士)五月七日 羽柴左近監秀常卒す(玄以公嫡子)十一月十二日
羽柴左近監秀常 徳善院追善の為に伏見桃山の旧殿(俗に血天井と称す)を請いうけて、当庵を再興する尾池清左衛門これに従事する

■慶長十三年(1608)

准中興開基尾池清左衛門当庵に自刃(江岩宗清禅定門)七月十八日

■元和元年(1615)

中興第十一世前東福儔甫受倫寂 四月二十六日

■元禄十一年(1698)

仙台中将綱村公東福寺に五山の僧を請じて伊達元祖朝宗五百年忌を修す

■元禄十二年(1699)

綱村公 東昌寺殿四百年忌を当庵に営弁す
綱村公戸張、柱巻等を寄進(現在)

■寛政十二年(1800)

佛智禅師五百年忌を東福寺で修す
東昌寺殿五百年忌を東福寺で修す

■嘉永元年(1848)

満勝寺殿(伊達家元祖)六百年忌を東福寺で修す

■嘉永五年(1852)

芳山慧春(当庵第二十世)東福寺に入寺す

■明治十六年(1883)

第二十一世泰運一勝 正統院へ移転統合し一宇を建立

■明治三十五年

佛智禅師六百年忌を東福寺で延修す

■昭和十五年

開創六百五十年忌慶賛法要
旧跡地に開山禅師の塔を建立

■昭和四十八年

本堂再建(旧伊丹の八崎邸を移築)

■六十一年

書院新築、庫裏改築

■平成二年

開創七百年慶賛法要

■平成八年

威徳堂(渡宋天満宮)建立

墨梅図 伝楊補之筆 東福寺蔵 慧日山宗派図 正覺門派

※左上、墨梅図 伝楊補之筆 東福寺蔵      ※右上、慧日山宗派図 正覺門派

正覚庵伽藍の変遷

正覺庵伽藍 図1

■創建当時

絵図、遺構等現存するものなし
碧玉山と称する
伝わるところによれば
大雄殿(本堂或いは仏殿か)、眞如塔(開山塔 明治初期までは木像の体内に遺骨を奉安していたと伝わる)、二松亭(客殿或いは方丈)、松月池の名がある

■慶長~

明治初期の諸什具絵図取調書に見る、見取図(図一)が前田玄以公(豊臣秀吉 五奉行)再興の伽藍と考えられる明治初期の財産目録に前田玄以公木像が記されているが現在せず

■明治十六年~

六月十六日付けの府提出の建物建替願添付の図面(図二)が正統院の伽藍と移転当時の用紙を伝える
その後旧跡地へ慶長再興の伽藍を模して再建正統院の復興を計画するも戦争の減化により断念

■昭和四十六年

本堂の再建を発願。縁あって故八崎治三郎氏の遺志により邸宅の寄進を受け、檀信徒の寄付金壱千数百万円を似て本堂を再建する(昭和四十八年七月落慶)

謝辞

正覺庵伽藍 図2

住山福島慶道老大師、大方、尊宿大和尚の御影嚮、ご来賓各位の御臨席を賜り、檀信徒はじめ関係者各位の御協力により、開山禅師七百年遠諱が無事厳修できましたことを衷心より深謝申し上げます。
 思えば、明治十六年伽藍が大破し、廃寺の危機にあい、泰運和尚によって一宇が建立されてから、百年以上の歳月をへて、ようやく往事のように、伽藍を再建することができました。この間檀信徒の皆様には、再三にわたってご奇進、ご尽力頂きまして、改めてお礼申し上げます。
 先師恩洲和尚、法洲和尚より伽藍を再建し、開山禅師、大壇那政依公のご恩に報いることが明治の移転以来の宿願であると聞かされてきました。
 当庵に限らず、明治維新後、寺院の困窮に廃仏棄釈に代表されるように、その存続さえ難しい時代であったと思います。
 明治十六年、府提出の建物建替願には移転の理由として「宝物のあること」、「開山禅師塔所として廃しがたい」に加え、「六軒の檀家があること」が記されています。
 檀家を有することは当時の塔頭としては稀で、明治三十五年佛智禅師六百年忌志納帳には十五の檀家名が記されています。移転以降、早々より檀徒を以て寺院の運営にあたらんとした事が窺えます。
 また文人墨却の往来も多く、筆供養の起こりとなり、筆の寺としても広く知られるようになりました。
 記念誌の作成にあたり、政依公によって創建されてから七百年、様々な時代を支えてこられた古人の遺徳の一端を記すにとどまりました。不行き届きの段、ご容赦のほどお願い申し上げます。

平成十二年十月九日  平住 徹洲


正覚庵余談 永尾大明神

重文 絹本着色佛智禅師像写 正覚庵蔵

※左、重文 絹本着色佛智禅師像写 正覚庵蔵

明治の中頃、現在の地正統院跡に移転して間もないある年の冬、朝雨戸を明けると庭は昨夜からの雪で一面真っ白になっていました。

山手の庭の片隅に赤く獅子頭の花のように見えるものがあります。

その辺りに花の咲く木はなく、不思議に思い庭に出てみると、白狐が血を吐いて死んでいました。

故あって、此処で息絶えたと想った和尚は、稲荷辺りに使いをやって巫女を呼んで白狐に問うと、「われは稲荷社の使いで、五社宮へ向かう途中毒餅を食べ、役目を果たせずここで息絶えてしまいました。ねんごろにおまつり下さい。」

 白狐は境内に葬られ、白毛をガラスの宝珠に収め御神体とし、今も祀られています。


昭和15年建立 佛智禅師塔

昭和15年建立 佛智禅師塔

法要次第

十月八日 宿忌

午前11:30 総茶礼 於正覚庵書院 引続 斎座
午後13:00 宿忌塔諷経楞厳咒 回向 炷香

十月九日 半斎 於法堂

午前10:00 献粥 大悲咒 回向
午前10:30 半斎 九拜式香語 楞厳咒行道 回向 炷拜
午前11:30 斎筳 於方丈

以上

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